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furu-t 学び続ける日々

2015-07-04

違和感の正体

なんか違うな。

何かな?この違和感。

最近感じていた違和感の原因が明らかになった。


最近感じていた違和感の原因。

それは2つ。


①全体ではなく、部分に目を向けていたこと。

②話す(放つ)ことばかりで語る(形づくる)ことができていなかったこと。


この2つがいつのまにか大きな違和感になっていた。

「感覚」というのはいつの間にかするりと逃げていくからやっかいだよな。

でも、短期間に気づき修正できるようになってきていることには成長を感じる。

結局この繰り返しの中で前に進むしかないんだな。

2015-06-28

やっぱり「在り方」一つ

石川さんと大野さんの講座に参加させてもらった。

講座の中で大野さんの学級のビデオの様子を拝見する。

子どもたちが学び合う場面。

すてきだったな。

勉強ができるってことは当たり前じゃない。

1時間1時間が大切な学びの時間なんだと子どもたちが感じているんだなぁというのが伝わってきた。


大野さんがしきりに言っていた言葉。

「制圧」ではなくて「納得」です。

でも、最後にちょっとつぶやいた。

「でも、やっぱり制圧かな?」


葛藤するこの言葉の中に含まれる、真理を見た気がした。

石川さんが「個人思考と集団思考を分ける必要がない」

とおっしゃったように「制圧」と「納得」も境界線などないのではないか?

そんな風に感じる。


「制圧」(という言葉が妥当ではないと思うけど)したから「納得」する子だっている。

「納得」したから結果「制圧」された子もいる。

そんな境界線なんてない。


大切なのは、大野さんが常に「制圧」ではなく「納得」というゴールを見つめ続けていることなんだと感じる。

やっぱりすべては「教師の在り方」

どんなにテクニックを学んでも実践をまねても、そこがなければ成り立たない。

そんなことを感じたな。

「できない」から「やらない」? 「やらない」から「できない」?

「できない」から「やらない」のか?

「やらない」から「できない」のか?


金曜日教育人間塾に参加して、頭にぐるぐると回ったこと。


子どもに寄り添う」

「カウンセリングマインドをもって…」

これは確かに口にも耳にも優しい言葉だよね。

確かに教育の根幹を語るとすると、本質をついた言葉なんだと思う。


でも。「寄り添う」という言葉一つとっても、とっても深いものなんじゃないかな?


常に温かく、受け入れ続けて「寄り添う」方法もある。

厳しく叱り、励ましながらも絶対に投げない、そんな「寄り添う」だってある。


でも「寄り添う」って言葉を聞くと、みんな「優しく」「温かく」という方向に引きずり込まれてしまうんじゃないかな?

芯がないと知らず知らずのうちに「寄り添う」は「甘やかす」に形を変えてしまう。


教師の仕事ってシンプルだと思う。

一つ目は、学ぶことの価値を語り、「やってみろ」ということ

二つ目は、できていることを認め、励ますこと

三つ目は、出来ていない所、甘い所をしっかりと指摘してあげること


二つ目ばっかりにフォーカスすると「信頼関係」は「馴れ合いの関係」になっていく。

学びから逃避した子の大半は「できない」と「やらない」が混じり合っている。

でも、そこであえてその入り口に目を向けることが必要なんじゃないかな?


「できない」子に対して、「やれ」と言い続けるだけでもだめ。

「やらない」子に対して、「わかるわかる。」なんて寄り添い続けるだけでもだめ。

それをすべて見据えた上で生まれる「支援」ってなんだろう。

そんなことを考えている。

2015-06-07

「ニセモノ」を直視する

アルジャーノンに花束を

めったにドラマを見ない自分だが、妻が隣で見ていたので、一緒に見ていた。

その中である人が涙ながらに語ったセリフ。

その言葉が胸をついた。

「そんな時、俺は所詮自分がニセモノだってことに気づく。ニセモノの俺じゃあお前たちに優しさの種をまいてやれねんだ」


この人の言葉に青年たちはじっと耳を傾けている。

この人は自分の中に渦巻くふがいなさ、弱さ、うそくそさすべてを認め、その上で自分を「ニセモノ」と捉えている。しかし、それを聴く青年たちの心にその言葉はまちがいなく届いている。

このワンシーンを見ていて、ふと思ったこと。

それは

「人は自分の弱さを認められた時にはじめて本物へと近づくことができる」のではないか?

ということ。


誰もが「本物」になろうともがく。

「まだまだ上だ」 「もっともっと先だ」 「こんなもんじゃない」と。

しかし、「本物」というものは所詮幻に過ぎない。

つかんだと思った瞬間にするりと自分の手から抜け落ちていく。


「本物」になろうとして、あがく、もがく、苦しんでいく。

どんなに偽っても、心では感じている。 自分のふがいなさを、弱さを、うそくささを。

ひたすら否定する。

「本物は違う。これは本物ではない」と。

しかし、ある日気づく。

「ああ。このふがいなさ、弱さ、うそくささから解放されない」


「あきらめ」というもの。

「明らかにみる」ことが出来た時、人は一歩先に進める。

自分は所詮「ニセモノ」。

もがきながら時を積み重ねた上で、自分の弱さを直視して放つ言葉には魂がこもる。

「本物」とは目指すものではない。

「本物」とは自分が気がつかないうちになっているものだ。

涙をかみしめながら自分が「ニセモノ」だと語った彼はまぎれもなく「本物」だった。

弱さを内包し、それでも前へ進もうとした時、人は本物へと近づいていく。

「どうなりたいか」ではなく「どうありたいか」

今現在の自分の積み重なりが、何かを形作っていく。

自分はまだ所詮「ニセモノ」 でも「ニセモノ」としてできることをやっていこうと思えた。

サナギが蝶へと自然に生まれ変わるように、本物も自然に生まれると信じて。

2015-06-06スタートをきった数=かしこさ

「スタートを切った数。それがかしこさにつながっていくんだよ」

昨日の算数の時間。子どもたちにそんなことを話した。

私たちの日常にはたくさんのスタートラインがある。

かしこい子ほど、スタートをきるのが上手だ。


Aくん。勉強は得意ではない。しかし、スタートをきるのがばつぐんにうまい。

昨日の算数は問題演習。

時間になり「よし。始めるよ。」と私が言った瞬間に鉛筆をもち、Aくんは学びをスタートさせる。

問題を解き終わっても、そこで立ち止まらない。

すぐに私のもとに歩み寄り、◯をつけてもらう。


問題はまちがっていた。

「あちゃ〜!」と頭をかきながらすぐさま席へ戻る。そしてまた再スタート。

彼は何度も何度も小さなスタートとゴールを積み重ねていく。

大切なのは「勉強ができる」「問題に正解する」ことなんかじゃない。

この小さなスタートを何度も積み重ねていことが大切なんだ。


「ゴールすることが大切」とは言わない。

「ゴール」を意識させることは大切。

しかし、そこにこだわるととたんに足取りは重くなる。

大切なのは「スタートラインにもう一度立てること」

「あっ。この学びではだめだな。もう一度スタートをきろう。」

と思えること。


子どもたちをじっとみる。するといろいろな子どもたちがいる。

スタートを何度も何度も積み重ねていける子。

スタートをした後、立ち止まりしゃがみこんでしまう子。

スタートをした後、逆方向に走り出してしまう子。

スタートはきるが、ゴールせずにちがうスタートをきる子。

スタートすらきろうとしない子。


どの子にも語りかける言葉は同じだ。

「スタートをきった数。それがかしこさだよ。」


私の授業は自由度が高い。

子どもたちが自分で考え、自分の言葉で学びをつくっていく場面がたくさんある。

だから「スタート」する感覚をつかむ。

自分がどれだけ「スタート」をきることができているかを常に客観視させていく。


スタートをきれない子には「スタートをきること」の大切さを語る。

一度スタートしたら思い切り認める。しゃがみこんだらまた語る。

その子の目が変わる。また学びへのスタートをきる。

「どうして集中できないの?」

とは言わない。

「あなたは今日2度スタートをきることができたね」という。


「スタートをきった数だけかしこくなれる」 スタートした先が成功したか、失敗したか、うれしかったか、悲しかったか。 そんなことは関係はない。 スタートをきったことに価値があるんだ。

子どもたち。大人になるにつれて、様々な出来事が起きるだろう。

悲しいこともあるだろう。理不尽なこともあるだろう。もやもやした気持ちになることもあるだろう。

でも大切なのはそんな状態でも「スタート」をきること。


ゴール地点なんかわからない。

そんな気持ちでスタートをきってもいい。

スタートをきればゴールが見えてくる。

自分の目指すゴールと違う方向に進んでいれば、また再スタートすればいい。

スタートをきっただけかしこくなれる。

metch96metch962015/12/07 22:37突然すみません。大阪市小学校で勤める新任1年目です。算数のみ『学び合い』にチャレンジしています。スタートをきっただけかしこくなれる。この言葉、とても心に響きました。明日子どもたちに語ってみたいです。古田さんの言葉参考にさせてください。

2015-06-04

違和感

「一番大切なものまで削ぎ落としてはいないか?」

最近、そんな違和感を抱えながら毎日を過ごしている。

教師にしかできないこと。それはすべてを受容することではない。

「あなたにはこれが必要。だからやりなさい」

子どもたちに本当に大切なものを提示し、向き合わせることも大切。

「厳しさ」の中に「優しさ」が存在している。

二つの両輪があってこそ、子どもたちに届く。

最近感じる違和感。

自分の中の「優しさ」が「厳しさ」にくわれてはいないか?ということ。

あせっているのか?

急いでいるのか?

大切なのことは「きっとできるようになるよ。だからやり続けていこう」という言葉。

しかし、最近の自分はよちより歩きの子どもに「走れ」と言っている感じ。

それは単なる「厳しさ」。「優しさ」なんかじゃない。

どこかで歯止めをかけようとする。

しかし、「厳しさ」は「優しさ」に食いついて放さない。

「優しさ」を育んでいくのは長い時間がかかる。

でも、それを崩れるのはほんの一瞬なんだ。

「優しさ」に内包される「厳しさ」なのか。

「厳しさ」に内包される「優しさ」なのか。

そのどちらかで全く質は異なるものとなる。

一つ一つ丁寧に。

もう一度、「優しさ」が包み込む「厳しさ」を求めよう。

そんなことを考える。

週の終わり。良い一日にしよう。