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furu-t 学び続ける日々

2014-11-29

良質の「インプット」良質の「アウトプット」

「話をしっかり聞きなさい」

教師はインプットの価値を語る。


しかし一方で

「主体的に行動しなさい」

とアウトプットの価値を語る。


インプットとアウトプット。 どちらが子どもを伸ばすのだろう?」

そんなことをずっと考えてきた。


インプットとは誰かの話を聞くこと。何かを読むこと。

アウトプットは話すこと。書くこと。行動すること。


授業において「全員発表」を目標にする教師がいる。

なぜそれを目標にするのだろう?

突き詰めていくと そこには教師がアウトプットを大切に思う気持ちが表れている。


「みんなの前で意見を言うことが大切」

「自分の意見を誰かに伝える経験が子どもたちを伸ばす」

アウトプットへの価値が根底にある。

しかし、そこに大きな矛盾を感じる。

どんなに全員が発表をしたとしても、一人が発表している間はその他大勢はインプット(受け身)となる。

アウトプットの価値を感じているはずなのに、実際の授業は大半の時間をインプットに費やしている。

多くの授業を見ていてこんな違和感を感じる。


これについて書いた過去記事

http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20130110/p2


このように一斉授業はどうしてもインプットに傾きがちになる。

このような状況を打破するために脚光を浴びているのが「協同学習」というスタイルなのだろう。

「協同学習」は子どもたちのアウトプットの量を大幅に増加させる。

それによって「主体性」「自分ごと」という感覚を養おうというわけだ。


インプットは受け身であるが、アウトプットは常に自分が主役となる。

そう考えていくと常に受け身ではなく、学びの主役となれるアウトプットをさせた方が伸びるのではないか?

ずっとそう考えてきた。


それをまとめた過去記事

http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20121022/p2


子どもたちを学びの主人公とさせる。

そのためにアウトプットを中心に授業を展開していくべきだ。

数年前はこのように考えていた。

しかし、少しずつその考え方が変わってきていることに気づく。


ここ数年「協同学習」を行ってきて気づいたこと。

それは「インプットか?」「アウトプットか?」という議論にまったく意味がないということだ。


協同学習を知った当初、「アウトプット」の量が飛躍的に増加するのを感じて興奮した。

これで子どもたちに「主体性」を養うことができる。子どもたちをグッと成長させることができると。


しかし、それは幻想だったことに気づく。

アウトプットを増やしてもグダグダのおしゃべりはまったく意味がない。

インプットかアウトプットかの二項対立に全く意味がないことに気づく。


ずっと考えてきて得たこと。

それは子どもたちを伸ばすためには

「良質なインプット」と「良質なアウトプット」が大切だということだ。

では「良質なインプット・アウトプット」とは何か?


誰かの講演会を聞く。

すばらしい話。目からウロコが落ちる。

その後に感じること。

それは 「やっぱりインプットって大切だなぁ。」ということ。


しかしこんな時もある。

講演会を聞いてもまったく頭に入ってこない。

そのうちに思考が宙を舞い「聞いているふり」になる。

講演会の後に感じること。

「やっぱりインプットは眠くなる。アウトプットが大切だなぁ。」


どちらの例も「インプット」していることには変わりない。

しかし、その結果得たものは正反対。

前者は充実感を得、後者は徒労感を得る。


どちらも同じインプットなのに結果が異なるのだ。

同じインプットでも「質」が異なるのだ。


前者のインプットは「質の良いインプット

後者のインプットは「質の悪いインプット」と言えるだろう。


この両者の違いを見ていくと「良質」というものの意味が見えてくる。

「良質とは何か?」私はこう考える。


「アウトプットを促すのが良質のインプット

インプットを促すのが良質のアウトプット」


インプットかアウトプットか?」ではない。

この2つは対極のようでしっかりつながっているのだ。


どんなに雄弁に語ろう(インプットさせよう)と、子どもたちがその言葉をもとに「よしやってみよう!」(アウトプットしてみよう!)と思えなければ良質なインプットとは呼べない。


どんなに主体的に行動しよう(アウトプットしよう)と、行動した結果をさらに高めるために、自分で調べたり誰かの話を聴いたりしよう(インプットしよう)と思えなければ、それは良質なアウトプットとは呼べないのだ。


「大切なのはインプットとアウトプットとの往復である」


これに気づけば、授業を見る目が変わる。

「聴ける子を育てたい」 その言葉を大義名分にし、アウトプットにつながらないインプットをひたすら続けてはいないか?


「大切なのは自分で行動する力だ」 この言葉を大義名分にし、インプットにつながらないアウトプットをしていないか?


子どもを伸ばしていくために必要なこととは?


「よし。聴いたことををもとに自分でやってみよう!」

このようにアウトプットが促す良質のインプット


「ねえ。もっとうまくやるにはどうすればいいかな?教えて。」

このようにインプットを促す良質のアウトプット。


力のある教師の授業には「インプット」と「アウトプット」の往復がある。

今一度考えるべきことは「一斉」か「協同」かということではない。


いかに「インプット」と「アウトプット」を往復する授業を展開していくか?ということだろう。


そんなことを考えるようになってから、「教える」ことを恐れなくなった。

「これはなぜこうなるの?」

「ここは違うんじゃない?」

「ちょっと話を聞きなさい。」


大切なのは「一斉」とか「協同」ではない。

インプット」と「アウトプット」の往復だ。


何度も何度も往復する。

その数だけ人は成長していく。

その場をつくりだせるのは教師だけなのだろう。