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furu-t 学び続ける日々

2012-07-22

[]1学期終了

先日算数の時間において一学期まとめのテストを行いました。

平均は89.8点。まずまずです。というかこのぐらい取れて当然ですよね。

1学期の間、算数は5回学び直しを行いました。



教科書での学び合い(1回目)

テストでの学び合い(2回目)

テストで弱かった所を中心に学び合い(3回目)

発展(受験)問題で学び合い(4回目)

今回のまとめのテスト(5回目)



人間は忘れる生き物です。記憶の繋がりを強固にするための最善の方法。

それは

「何度も何度も繰り返し学び続けること」です。

この考え方は常に私の授業の軸となっています。


「できないことは罪じゃない。忘れてしまうことだって悪いことじゃない。

でもね。できないこと、忘れてしまったことをそのままほったらかしにしておくことは罪なんだ。」


常に子ども達に語り続けている言葉です。

大切なことは決して投げないこと。目を背けないこと。向き合い続けること。

当たり前のことかもしれませんが、これは本当に難しいことです。

だからこそ、学校にくるのです。だからこそ友達と共に学ぶのです。

1人では乗り越えられない。

しかし、仲間とならばそれも楽しみながら乗り越えられるのです。


この1学期。子ども達の心の中に少しずつ感覚が芽生え始めました。

なぜ学校にくるのか?

なぜ友達と学ぶのか?

どんな勉強がよい勉強か?

自分は何に向かって日々を過ごしているのか?

良い声の質とは何か?

友達ってなんだ?

優しさって何だ?

なぜ学ぶのか?・・・。



少しずつ少しずつ感覚を刻んでいけばいい。

聞いた言葉が自らの口からあふれだした時、その時が真の卒業なのでしょうね。

たくさん笑い、たくさん怒り、たくさん語り、たくさん話し合った学期でした。

さて2学期はどんな成長を見せてくれるのでしょうか?

よい夏休みを!

「知」と「徳」を同時に

なぜ子ども達が学び合う必要があるのか?


我々の目的は子ども達に学び合いをさせることではない。

子ども達を繋げることでもない。

それらは目的のための手段に過ぎないのだ。


もちろん目的はただ1つ。

「学び続けられる人間を育てる」こと。


子ども達は皆、心の奥で「誰かの役に立てる人になりたい」と願っている。

しかし、その願いを言語化する力が育っていない。

その願いは胸の中で形になることなく生き続けている。

来たる時が来れば誰もがその思いに気づくのだ。

しかし、多くの子ども達はその思いに気づく前に学びから逃走してしまう。

自分はだめだ。自分なんて…。

自己肯定感の低下は「恨み」へと変わっていく。

そして、心の中の願いは固く閉ざされる。

我々教師の役割は何か?

それはもちろん

子ども達が自分の願いに気づく瞬間まで逃げることなく学び続けさせられるか?


オーソドックスな「一斉授業」

「知」の伝達という面では非常に重要な役割を果たしている。

しかし、子どもを常に教師に注目させ、子ども達が互いに言葉を交わすことなく進めていく授業で子ども達の心は育つのだろうか?



一方最近新しく生まれてきた「協同学習スタイル」の授業

子ども達が自由に繋がり合うことで、学習意欲は向上する。コミュニケーション能力も向上するだろう。

しかし、「本当にできているのか?」「わかったつもりになっていないか?」があいまいになる。

子ども達が話し合えば「知」が育つわけはない。


どちらも一長一短。

「知」も「徳」もどちらも育てたい。

しかしどちらも育てられない。そのジレンマに多くの教師が悩んでいる。


多くの教師が悩み苦しむその命題に真っ向勝負をしかける。

簡単な話だ。「知」を育てながら「徳」も育てる。

頭でっかちにならない授業はないか?

それを日々追い求めている。


常に授業において語る。

なぜ学校にくるのか?なぜ友達と学ぶのか?よい学びとはなんなのか?

今の学びの何がだめなのか?結果を出すとはどういうことなのか?

授業において徳を学ぶのだ。

まさしく「知育」と「徳育」の同時進行。

国語をやりながら道徳をしている。

算数をやりながら道徳をしている。

そのような感じだ。


道徳の授業だけで「徳」が育つわけがない。


「友達は大切に…」

「友達には優しく…」

「友達には親切に…」


そんなこと子ども達はみなわかっているのだ。(頭の中では)

わかっているくせに平気でこんなことを言う。


「先生。好きな人と食べてもいいですか?」

「先生。好きな人と勉強してもいいですか?」


好きと嫌いは表裏一体。

この言葉は裏返せばこういうこと。


「先生。好きではない人とは食べなくもいいですか?」

「先生。好きではない人とは勉強しなくてもいいですか?」


「道徳の授業」と「日常」子ども達の中では繋がっていないのだ。

道徳の授業で「徳」なんか育たない。

学んだ「徳」は日常の生活に落とし込めて初めて力を発揮するのだ。


我々教師の役割は日常においてその「徳」を子ども達の体に刻んでいくこと。

学校の日常とは何か?

それはもちろん「授業」であろう。

だから一斉授業を捨てた。

子ども同士を切り離し、操り人形にする自分の弱さを捨てた。


「知」も「徳」も本気で育てぬく覚悟はあるか?

それを常に問う。

自分の在り方の強さも弱さも見えている。

しかし、これしか道はないとも本気で思える。



「学び続ける人間」を育てるために自らが「学び続ける人間」であれ。